足守の歴史・文化


◇近水園(おみずえん)


 地元で近水公園として親しまれているこの「近水園(おみずえん)」は、旧足守藩主木下家の庭園で、重要文化財として岡山県の指定名勝に位置付けられている。

 この庭園は、小堀遠州作の京都・仙洞御所の庭とよく似ており、茶人としての遠州の禅味と茶味を感じさせる優雅な趣のある風情を呈している。

 池の畔に建てられている数寄屋造りの2階建ての建物が「吟風閣」である。

 この建物は、第6代藩主木下公定(きんさだ)が宝永5年(1708年)に京都の仙洞御所と中宮御所の普請を仰せつかり、その翌6年に普請が終わったとき、その残材を拝領して持ち帰り建てたもので、今から300年前の建物である。なお、平成9年に修理が行われた。

 この園内は桜、楓等の樹々に囲まれており、春には桜、秋には黄色く色づいた紅葉等、四季折々に趣きのある美しい風景を見ることができる。

 なお園内には、歌人佐々木信綱に師事し、白樺派の歌人として広く知られる第14代当主の木下利玄(本名は「としはる」、普通「りげん」といわれる)の歌碑があり、歌碑には、生涯自然を友とした利玄らしい代表の一首が建立されている。

 歌碑

「花ひらをひろげつかれしおとろへに 牡丹おもたく萼(がく)をはなるゝ」



◇歴史・文化史跡など(旧備中国・足守藩に関する史跡等)


 1)秀吉 高松城の水攻

 今から約440年前の戦国時代の天正10年5月(1582年)、織田信長の命を受けた秀吉は、宇喜多秀家の1万余りの兵とあわせ、毛利攻撃を行った。小早川隆景が率いる毛利方は軍議を練り、備中7城(高松、宮地山、冠山、加茂、日幡、庭瀬、松島)の8,500騎により守備を厳重にして対峙した。秀吉は、高松城が要害にして攻撃が難航すると推し量り、高松城主清水宗治に対し誓書を示したが、宗治がこれを峻拒した。そこで秀吉は、宇喜多勢をあわせ三万五千騎を率いて竜王山に陣取り、高松城を完全に包囲し、雨季の足守川の増水を利用して、黒田官兵衛の進言といわれる「高松城水攻め」を行った。毛利方の吉川元春、毛利輝元も来援したが及ばす、講和を結んだ。

 この攻防のとき、6月2日に秀吉は本能寺の変を聞き、早急な講和を促し、毛利方を服させた上で、守衛を宇喜多へ頼み、宗治の自刃を見届けて、明智光秀の仇討のため本能寺に向け急遽東上した。いわゆる「中国大返し」である。

 この水攻めのため、足守川の堤防を壊し、水を引き入れた箇所は、現在のJR西日本吉備線(ももたろう線)の足守駅付近である。


 2)北政所(秀吉の正室「ねね」)

 足守藩主木下家は、平氏の出身で杉原と称し、織田信長の家臣であった杉原家定の妹「ねね」が、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁ぎ、秀吉の天下人に伴って「北の政所」となった。このため「ねね」の実家が秀吉一族として木下姓を名乗ることを許され、さらに豊臣の称号も与えられた。

 関が原合戦に際して、2万5千石を領有して姫路城主であった木下家定は、北の政所を守護して中立を守り、合戦の後の慶長6年(1601年)3月27日に同じ石高であった備中国足守に所領替えとなり、足守へ移った。

 ここに足守藩木下家が始まり、一時中断があったものの、家定の子孫が明治維新まで13代にわたって藩主として備中足守を治めた。

(注記)

 北政所「ねね」の画像は、山陽新聞社編「ねねと木下家文書」(山陽新聞社、1982年)。また豊臣秀吉像(京都市高台寺蔵)の画像は、平成30年度特別展「岡山ゆかりの肖像」(岡山県立博物館刊)から転写している。


 3)木下利玄の生家

 近水園へ至る石畳みの通路の途中に旧足守藩第14代当主の木下利玄の生家がある。

 明治19年1月1日(1886年)にこの家で生まれ、5歳のとき伯父の第13代藩主利恭の養嗣子となり、木下家の14代当主となった。

 また、木下利玄は佐々木信綱のもとで早くから短歌に親しみ、武者小路実篤や志賀直哉等による「白樺」の同人としても名を馳せる。利玄の歌風は、自然や草花にひたすら心を注ぎ、平明で写実風であり、「利玄調」といわれる短歌一筋に大正14年2月15日に40歳の短い生涯を閉じた。

 代表作に

  「牡丹花は咲きさだまりて静かなり 花の占めたる位置のたしかさ」

 など、多くの作品を残している。

建物は寄棟造りの瓦葺の平屋で、玄関は2間の式台付きの門構えで、家屋全体はこじんまりした感じをあたえるが、奥に向かって広々とした配置となり、藩主の建物の佇まいとしての規模と格式を備えている。

 家屋は、大正期に建てられたもので、かつては土壁の剥落等の老朽化が進んでいたが、平成23年に多くの基金をもとに修復が行われた。

 入口の右の土蔵の中からは豊臣秀吉、秀次の関白叙任状や秀吉直筆の古文書、北政所(ねね)などに関する貴重な資料が近年発見され、大きな話題となった。

 【開館日時など】

  ・開館日は、金、土、日、祝日:9:30~16:30

   なお、12月から3月までは、日曜日のみ開館。

 ◇その他

   木下利玄歌集の販売


 4)旧足守藩侍屋敷

 この侍屋敷は、江戸時代に足守藩の国家老を務めた杉原家の居宅である。家老屋敷の佇まいはほぼ完全に近い形で伝えていて、この種の武家屋敷としては県下唯一の貴重なものである。

 (昭和31年4月1日に岡山県指定重要文化財の指定)

 昭和40年代まで、家老職の後裔の杉原さんの住まいであったが、昭和48年に岡山市へ寄付され、復元保存修理を施し、現在の姿で公開している。

【開館日時など】

 ・毎日、火曜日~日曜日 : 9:30~16:30

 ・休館日:月曜日(休日のときはその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)

 ・入場料:無料



◇緒方洪庵の生誕地


緒方洪庵の事績


 緒方洪庵は、旧足守藩士佐伯瀬左衛門の三男として文化7年7月14日(1810年)に足守に生まれた。

 明治の啓蒙思想家の福沢諭吉といえば、すぐに「天は人の上に人を造らず、人の下に人を 造らず、と言へり。 ・・・」を唱えた偉人と誰もが思いあたるが、その師であり、幕末の蘭学者・蘭方医であった緒方洪庵の「適塾」で学んだことや、この適塾から幕末、明治に活躍する多くの塾生である、福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎等を輩出したことは、吉田松陰の松下村塾とも比べる人もある程だが、緒方洪庵の事績は余り世に知られていない。

 洪庵は、この地から16歳のとき大阪に出て中天游、そして江戸では坪井信道、宇田川玄真について蘭学、西洋医学を学び、そして長崎で蘭学を学んだ。

 医者としての洪庵は、すぐれた蘭学の力によって蘭書を翻訳して西洋医学の普及に貢献したこともさることながら、安政5年(1860年)に大阪でコレラが蔓延し、トンコロと称されて日々の死者が数百人に達し、8月には12,000人の死者があり、人々の恐れが世を覆うまでの事態となったとき、洪庵は、急ぎ「虎狼利治準(ころりちじゅん)」という本をつくり、医者たちへ配布し、治療方法を指導してコレラ撲滅に大きな効果をもたらした。

 またこのコレラ撲滅以外に、1850年頃から不治の病といわれた天然痘について、日本で初めて「種痘」の普及に努力したこと。そして広く全国に広めたことは、大きな功績として特筆にあたいする。

 このような状況下において13代将軍が急死した。これを契機に幕府の蘭医学への期待が大きくなり、とにかく洪庵を江戸へ召しだすこととして、強い働きが起こった。このため、洪庵は度重なる要求を断りきれなくなり、意に添わぬままに文久3年(1862年)に幕府へ出府した。

 江戸にはかつての塾生たちが大勢いて、何くれとなく面倒を見てくれたが、奥医師としての役人暮らしは心労が多かったようで、わずか10ヶ月余その任にあっただけで吐血し、志半ばで文久3年(1863年、54歳)に急死した。

ちなみに、大阪大学医学部の原点は、洪庵が天保9年(1838年)に開設した適塾にはじまる。

(注記)

 緒方洪庵に関する記事等は、岡山大学「陣屋町の研究(備中足守の場合)」(昭和30年頃)の資料を参照している。 

 また大阪「適塾」の画像は大阪観光局サイト、肖像画像は、大阪大学サイトから転写している。

 

◇その他

  緒方洪庵歌集の販売



◇その他の史跡


 葦守(足守)八幡宮

 

 葦守(足守)八幡宮は、古墳時代の4世紀頃のこととして、日本書紀の卷第十・譽田天皇(ほむたのすめらみこと)紀の五.追隨妃兄媛歸省之吉備行幸に、「庚寅、亦移居於葉田葦守宮時御友別參赴之」として記されている。

 これによれば、応神天皇が吉備の国葦守へ里帰りしたお后である吉備兄媛命(えひめのみこと)を追って応神22年9月にこの地に行幸し、葉田葦守宮で兄媛とその兄・御友別命(みともわけのみこと)の饗応を受けたとされる。

 なお、この時の状況は次のとおりとされる。

 ・・・即位22年春3月5日、難波の大隅宮に行幸。14日、高台に登り遠望した。その時、妃の兄媛(えひめ)が西の方を望んで嘆いた。なぜ嘆いているのかを問うと故郷の父母が恋しいからだと兄媛は答えた。兄媛は吉備氏の娘であり故郷の方角を見て望郷の念にかられたのだった。そこで兄媛の里帰りの希望を許し、淡路の御原の海人八十人を水手として集めた。そして4月に大津から吉備に向かう兄媛を見送って歌を詠んだ。

 『淡路島 いや二並び 小豆島 いや二並び 宜しき 島々 誰か た去れ放ちし 吉備なる妹を 相見つるもの』

 秋になって天皇は吉備へ行幸することにした。9月6日に淡路で狩りをし、小豆島を経て10月10日に吉備の葉田葦守宮に至った。そのとき兄媛の兄の御友別が出迎えて一族総出で食事を奉った。天皇は御友別の謹惶(かしこまり)を喜び、その子孫たちに吉備国を割いて封じることにした。

 ・・・としている。